観音寺について

四万八千日 観音寺について

長野県長野市にある浄土宗寺院。鎌倉時代に開創され現在まで約800年の歴史を地域と共に歩んできました。本尊は秘仏である征夷大将軍源頼朝公の守佛、『髻馬頭観世音菩薩像』。毎年8月9日に行われる四万八千日縁日法要において御開帳しております。

浄土宗をお開きになった法然上人の「阿弥陀如来は南無阿弥陀仏と唱え極楽往生を願ったものは全て分け隔てなくお救い下さる」というお念仏の教えを過去現在未来へと引き継いでおります。

「檀信徒の皆様のお寺」という想いで定期法要やご法事のみではなく、お寺でのお葬式をはじめ檀信徒の皆様方の様々なご希望にあった用途でお使いいただけるよう心がけております。

名称明助山 普門院 観音寺
開山建久9年(1198年)
念阿上人
本尊源頼朝公御守佛
髻馬頭観世音菩薩
宗派浄土宗
総本山知恩院
宗祖法然上人
住職中嶋英見
副住職中嶋英貴

観音寺のお坊さん

観音寺

住職

観音寺

副住職

観音寺で生まれ育ち、大学在学中に浄土宗教師養成講座成満、大本山増上寺において加行成満。その後滋賀県内にて競走馬の育成業務に従事後、観音寺へ戻り副住職に就任。

脈々と伝えられている法然上人のお念仏の教えをわかりやすくお伝えするとともに、ヨガ教室を始めいろいろな方が気軽に参加できるイベントを計画中。 

源頼朝ゆかりのお寺

観音寺の歴史

建久8年(1197)、征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝が自ら復興した善光寺へ参拝の折、北国街道沿いであった中御所に逗留されました。

その際、頼朝の守佛であった髻馬頭観音菩薩より「この地は私に縁のある場所である。私はこの地に留まり末世の人々を救いたい」とのお導きがあり、頼朝公は一宇の伽藍を草創し、この髻馬頭観世音菩薩並びに妻である北条政子御前の持仏である正観音像を安置されたことが観音寺の起源です。現在の堂宇は文化10年(1813年)5月に建立されたものです。

特色

源頼朝公御守佛 秘仏

髻馬頭観世音菩薩

もとどりばとうかんぜおんぼさつ

頼朝公の守佛。御丈六分五厘。髻(頭髪)の中に入っていたことから「髻」観音の名がついたようです。源平合戦の一つ石橋山の戦いでは敵将大庭景親に敗れ敗走中の頼朝公が楠木の空穴に身を隠していたところ、この馬頭観音が雌雄の白鳩や蜘蛛に化け頼朝公を救ったとの逸話が残っています。

二位禅尼御持仏 秘仏

厄除正観世音菩薩

やくよけしょうかんぜんぼさつ

北条政子御前の持仏。御丈一寸一分。三井寺智證大師作。頼朝は平家打倒挙兵の際この正馬二尊を身に帯し、心念口唱し合戦に向かったとされています。

聖徳太子御作

火除地蔵菩薩

ひよけじぞうぼさつ

この地治めていた豪族漆田氏の安置佛。

火事など火に関する厄難からお救いしてくださる地蔵菩薩です。

病気平癒のおびんずるさま

賓頭盧尊者

びんずるそんじゃ

お釈迦様の弟子の一人。「おびんずるさま」「なでぼとけ」などと呼ばれており、撫でることで病気平癒を祈るという民間信仰が伝わっています。

年に一度の御開帳

四万八千日縁日法要

しまんはっせんにちえんにちほうよう

毎年8月9日に行われる縁日法要。この日にお参りをすると四万八千日お参りしたのと同じだけの功徳があるといわれています。

当日は長野市内から10名を越える僧侶が集まり法要を行います。また、地域の縁日屋台や子供腕相撲大会などの催し物も開催されます。

観音寺の境内

山門
本堂内観
庫裡
永代供養墓
観音寺の

年中行事

1月1日 修正会
正月にその年の天下泰平・風雨順時・五穀豊穣・万民豊楽・除災招福を祈願する法要です。 
4月17日 御忌会
浄土宗をお開きになった法然上人の忌日法要です。
8月9日 四万八千日縁日法要
この日にお参りすると一生分(48,000日分)の功徳があるといわれています。併せて本尊の御開帳も致します。
また、出店や子供腕相撲大会なども行われています。

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